他人の自傷痕が愛おしい

 

他人という存在はあまりにもつかみどころのないもので、どんなに求めても相手の本当を知るのは無理だ。

 

見かけの人格はいくらでも取り繕えるから、それがその人の素の顔だと思っても本当にそうかは永遠にわからない。


でも、
自傷痕にだけはその人の本当が浮かび上がっている気がする。

 


食器棚にナイフがあると思う。
鏡のような表面を持つテーブルナイフが。
曇った表面だったり自分の顔が映らないほど傷だらけのものではなくて。


できたらそれを手に取ってみて欲しい。


ナイフを見つめる、ナイフ自体を見ようとしてみる。

鏡面を持つものを見つめることの難しさに気づくと思う。

周囲の景色を反射するナイフはどこが表面なのかわかりにくい。表面を見ているつもりでもそのコンマ何ミリ手前、奥を見ているかもしれない。

ナイフを見ているとき、それに反射した周囲の景色の像に同時にピントを合わせることはできない、その像はナイフの奥でぼやけて二重にちらついている。

ではナイフの奥に写った像を見ようとすると今度はナイフ自体がぼやけて二重にちらつく。

どこを見ればナイフを見れるのか、どこがナイフなのか、考えれば考えるほど不可能性に囚われてもどかしくなる。


私にとって他人を知ることはそれと同じように原理的な不可能性をはらんでいて、もどかしい。

 

 

もう一度ナイフを見る。
今度はナイフの表面に刻まれた小さな傷に目をやる。
傷にピントがピッタリ合う、表面に沿って這う傷に形取られて今度はナイフの表面がちゃんと見える、ナイフの形がわかる。
さらにはナイフに文字通り刻まれた歴史がわかる、記憶がわかる、使われていたってことがわかる。


他人の手首に刻まれた傷も同じ。
あの子のためらい傷を見るとあの子が見える、あの子の存在がわかる。
あの子が苦しんだってことがわかる、痛かったってことがわかる、生きてたってことがわかる。

 

 

哲学が形而上学の泥沼でもがいていたとき「我思う故に我あり」を発見した人がいるけど、

対人関係の泥沼でもがいている私にとってはそのくらいの大発見に近い。


エウレカ